「栗東トレセンで初めて取材した時、

坊主頭から後光が差している感じがした。

この新人はきっとすごい騎手になると思った」

武豊との出会いをこう振り返るのは、

関東のスポーツ紙競馬担当記者。

その予感は当たる。

88年、デビュー2年目に

スーパークリークで菊花賞を勝ち(初GⅠ勝利)、

その翌年、全国リーディング首位と

快進撃を続けた驚異の新人は、

90年有馬記念ではスーパーホースとともに、

ファンの喝采を一身に集めることになる。

第2次競馬ブームの主役だった

オグリキャップ。

その年の春、

豊はテン乗り(初騎乗)の

安田記念で勝っていた。

その後は(別の騎手騎乗で)凡走が続き、

鞍上に再び豊が指名される。

競馬ライターが証言する。

「オーナーが代われば主戦も代わり、

GⅠを連闘で使われるとか、

とにかく話題には事欠かない馬。

ただ、豊が有馬記念で乗った時は、

競走馬としてのピークはとうに過ぎていました」

豊自身も調教をつけて、

その衰えっぷりに驚かされる。

ところがそれをレースで一変させた。

「道中は気持ちよく走らせる」ことに徹して、

4番人気の低評価を覆してみせると、

中山競馬場はオグリコールに包まれた。

豊はのちにこう述懐している。

「有馬記念を勝てたのはうれしかったが、

それ以上に

「すでにGⅠを何勝かして

リーディング首位になったといっても、

あのレースでファンやメディアの

評価が変わったのを感じました」

前出・競馬ライターも

「すでにGⅠを何勝かして

リーディング首位になったといっても、

『いい馬に乗せてもらっているからだ』

と言う関係者も少なくなかった。

それが有馬でのみごとな乗り方を目にして、

悪く言う者はいなくなりました」

怪物伝説を生んだ芦毛馬と若き天才ジョッキー。

豊は2戦乗っただけだったが、

そのどちらもが惨敗後の勝利。

騎手として確かな感触をつかむのは当然だった。

そして91年には、

史上初の親子3代天皇賞制覇の記録を残した

(父メジロティターンが82年天皇賞・秋を、

祖父メジロアサマは70年天皇賞・秋を制覇)

メジロマックイーンの

手綱を取ることになるのである。

新馬デビューが遅く、春のクラシックに

出走できなかったマックイーンは

菊花賞を勝ち、

古馬になった91年から豊とコンビを組む。

菊花賞の騎手は内田浩一だっただけに、

この(天皇賞の)一件でも

「豊は強くなった馬を横取りする」

とバッシングされたが、

コンビ初戦の阪神大賞典と

2戦目の天皇賞・春を完勝し、

批判を一掃した。

その年の秋、天皇賞・秋で

2連覇を狙うが、

そこで「事件」が起きる。

スポーツ紙デスクが言う。

「記者席から望遠鏡でレースを追っていても

見えづらいところでの出来事。

審議ランプがついて、

対象になったのはあそこだな、

と思った程度です。

『これはただ事じゃない』と感じたのは、

レースからだいぶ時間がたってからでした」

事件の顚末はこうだ。

舞台となった東京競馬場の

芝2000メートルは

1コーナーのポケットがスタート地点。

いいポジションを取ろうと、

2コーナー目がけて揉み合うように

各馬が殺到するのはいつものことだったが‥‥。

18頭立ての13番だったマックイーンが

2コーナーで内側に切れ込んだために

アクシデントが起きる。

接触を避けようとした

プレクラスニーの江田照男は

さらに内側に寄せるしかなく、

そのアオリを食ったのが

プレジデントシチーの本田優。

落馬寸前になり、

「他の馬とぶつかったから落ちなかった」

(本田)ほどだった。

さながらドミノ倒しに近い影響を受けた

4、5頭の中には、

岡部幸雄のメイショウビトリアも入っていた。

好位から抜け出したマックイーンは、

2着プレクラスニーに

6馬身の差をつけてゴールイン。

後方からの競馬で全てを見ていた

カリブソングの柴田政人は

「豊、ウイニングランはダメだぞ」

と忠告しているが、

勝利に酔う豊には聞こえなかったのか、

スタンド前までマックイーンを走らせ、

ファンの声援に応えている。

「裁決室に呼ばれた各騎手が

何があったかを話すと、

豊はアウト。

いつもは寡黙な岡部が部屋を出るや、

『豊は失格。

あんなレースをされたら

競馬にならないよ』

と激怒した」

(前出・デスク)

マックイーンはGⅠ史上初の

18着降着となり、

豊は6日間の騎乗停止処分を受ける。

豊のショックは並大抵ではなく、

ターフに復帰しても40戦以上、

未勝利のスランプに陥った。

この事件があったからではないだろうが、

マックイーンは93年の宝塚記念まで

4年連続GⅠを制覇しながら、

年度代表馬に選ばれることはなかった。

K氏が言う。

「菊花賞以外、活躍したのは

春に集中したせいもあったからでしょうが、

『マックイーンがかわいそうだよ』

と豊が嘆いていました」

父・邦彦氏は

キレイでフェアな乗り方をする騎手だった。

豊もその姿を手本に、

まったく同じ乗り方で菊花賞を制するなど、

「師の教え」は着実に受け継がれていた。

そのDNAが唯一にして

最大のミスを犯したのがこの天皇賞であり、

豊にとって初の屈辱だった。

「外枠が不利な東京2000メートルでは、

2コーナーまでにいいポジションを取らないと、

あの長い直線もあり、

勝負にならない。

冷静な豊には珍しく

周囲が見えないほどに熱くなり、

焦っていたのです。

同時に、天才ともてはやされ

飛ぶ鳥を落とす勢いだった豊はこの頃、

あのウイニングランでわかるように

有頂天になり、慢心も芽生えていた。

それを先輩騎手がいさめたのです」

(厩舎関係者)

ペナルティを食らって沈む豊だったが、

邦彦氏は「大人の関係だから」と、

若い豊にあえて

手を差し伸べず立ち直るのを見守った。